青木/ ちょっとひと息ティータイムです。 今日は「無音の音が聞きたい」というテーマで、鼓舞指座主宰、演出家の大原秋年さんにおいでいただきました。 大原さん、おはようございます。
大原/ おはようございます。
青木/ 大原さんは、劇団「鼓舞指座」という、これは、聴覚障害の方のことをテーマに、主に芝居を続けている劇団ですね?
大原/ はい。 指よ頑張れ、という意味です。鼓舞指(こぶし)、鼓舞するわけですね、指を。
青木/ 「鼓舞(こぶ)」という字に「指」と書いて、「鼓舞指座(こぶしざ)」
大原/ はい。
青木/ あ。「指よ頑張れ」  この「指」というのは…?
大原/ 手話。
青木/ ああ、手話の「指」。そういう意味でお付けになったんですね。
どんな劇をしてらっしゃるんですか?
大原/耳の聞こえない人に見てもらいたい、ということと、耳が聞こえる人と同じ客席に座って見てもらうということを目標にしています。
青木/ お客さんは、耳の聞こえる方、聞こえない方。
大原/はい。
青木/ 演じてらっしゃるのは?
大原/わたしたちの劇団は、耳の聞こえる人間が多いですけれども。かつてはろうあ者の俳優もいました。
青木/ はい。それで、どんな形の舞台になるんですか?
大原/作品によって違いますけども、ろう問題をテーマにした時は、ごく自然の流れで、手話が入ってきますけれども。手話が合わない内容の演劇がありますよね。例えば、江戸時代。時代劇なんかの場合に、チャンバラをしながら手話をやるのも、なんか、不自然だし。つまり、そういう時に、歌舞伎の黒子(くろこ)を付けて。つまりひとつの役を二人で演ずるわけですよ。一人は普通の扮装をして、セリフをしゃべる。隣で黒子がですね、身ぶりを主体とした、まあ、アクションをしていく。
その黒子がですね、実は、人間には表と裏があるように…。今日は、非常に悲しいけれども、ニコニコしゃべらなければいけないって時がありますよね。人と相対する時に。
本当に、心の奥底の気持ちを、黒子が演じていくような。そういうこともできますね。
青木/ チャンバラを想像して…?
文楽の、黒子の…
大原/そうです、そうです。ええ。
青木/ ああいう「なり」をした方が、手話で、こう…?
大原/はい。
青木/心の奥底を演じてらっしゃるというと…。
あ、でも、チャンバラのあの格好だと、ぴったりですね。 よく、思いつかれましたね。
(笑)
大原/やっぱり、「見えない」という約束事の黒子が、実は、ホントは見えるわけですね。だから、もっと、効果的に見せるっていう…
青木/それは大原さんが、発案なさったんですか?
大原/思いつきました、はい。
青木/まあ。それで、普通の舞台の現代劇の場合は、俳優さんが手話をなさるんですか?
大原/あ、それもですね。例えば、あの、このあと出てくる「四つの終止符」っていうのは、ろうあ者の冤罪(えんざい)を扱った事件ですけれども。
ろうあ者の事をまったく知らない刑事が、手話を使って取り調べをするっていうことも、おかしいし。そこに、いわゆる扮装は黒子とはちょっと違いますけれども、黒子の役割の人間が、やはり出てくるわけです。
つまりこの人間が、手話をやりそうもない人間のそばには、必ず、黒子が付く。それも、時と場合によっては複数になることもあるし…。
青木/はぁ。群衆に…なったりするわけですね。
大原/ええ。群衆になったりすることもあります。
青木/すると、凄く迫力ある…舞台になるわけですね。
大原/そうですね。視覚的にはね。
例えば、あの、「王将」。坂田三吉という将棋の話がありますよね。あれを、40いくつの駒が、人間将棋をしながら、背中に「銀」とか「金」とか、背負いながら、そして全員で坂田三吉を持ち上げて行くわけです。
青木/はい。
大原/そうすると、客席で見ていると、「あ、この駒が、坂田三吉を育てていくんだ」と。その駒が、全部手話をやるんです。
つまり、三吉よ、頑張れ、というような。つまり、育てていくような姿を…
青木/あ、凄いですね。発想が自由自在ですね。
どこに手話が登場するかは、もう、演出の大原さんが…
大原/ええ。必ず、客席に聴覚障害者がいるという意識が、頭から離れないんですよ。
青木/どうして、そういう舞台を、思いつかれたんですか? 出会いは何だったんですか?元々からの、お話を伺いたいんですが。
大原/元々はね。家族に居るわけじゃないんですよ、ろう児が。
それに、23年前に、1977年に、劇団を創りまして、ごく普通の芝居をしてたんですよ。
青木/元々、芝居はお好きだったんですね?
大原/はい。その前からやってますから…。かれこれ、もう38年、やってますかね。
青木/島根のお生まれ、お育ちということですが。
大原/はい、出身は島根ですね。
青木/そこで、既に、お子さんの時から…?ま、お子さんの時からって言うのは変ですけれど…。
大原/そうそう。これは好きでした。もう、毎年、その、体育館の中でやられる狂言だとか、「すわらじ劇園」とか「新制作室」の演劇が、1年に1回くらい、来るんですよ。それを、もう、指折り数えて、もう、心待ちにしてましたね。まだ、テレビがない時代ですから。ラジオだけでしたからね。 そのことと、学芸会ですよ。
青木/学芸会。なんか、懐かしいですね。
大原/「浦島太郎」をやったり、「泣いた赤鬼」をやったりね。「走れメロス」をやったり。それはもう、楽しいものでした。だからもう、すべて、演劇が好き嫌いは別にして、全員で芝居を作る。絵が上手い者は絵を描け。先生も生徒も。その「作る楽しさ」は、小学校で味わいましたね。
そして中学校で演劇部に入って、それに拍車をかけて行ったんですよ。
青木/ほんとうに、一途な青年だったわけですね。
大原/ええ。それからまあ、東京へ出て、本格的に演劇をやりたいと、思って。二十歳(はたち)ごろに出ましたけど。 まあ、やっぱり、三つか四つ、劇団、転々としながら、なんとなく、こう、自分に合わないっていいますかね。どこへ行っても…。
青木/どんなところがですか?
大原/うーん、なんか、こう、みんなで作るって感じがしないんですよ。分業化されてくっていうのか。そこで僕は、演出というものがあったり、まあ、美術、音楽もある…それは本当にそうなんですけれども。それを、みんなで、仲間で発見して、スタッフで作っていくというような作り方じゃなくて、専門家に委託するというような…。
青木/ああ、東京の大きな劇団だと、ね?そういう所も、多いでしょうしね。そういう所を、ずうっと、劇団員としてお入りになって、やってらっしゃったわけですね?
大原/ええ。
青木/何か、満たされないものがあって…?
大原/なんかねー。演劇はやっぱり、文学的過ぎて難しいっていうのもありました、僕にとって。もうちょっと、大衆っていうか、一般の人にね、わかるっていうか、楽しめる演劇をやりたいと思いましたね。
青木/それが、どうして、手話ということに結び付いていくんですか?
大原/それで、劇団を作りたいと思ったんです、自分で。当時、その、ぬいぐるみ劇団で働いてた若者達と出会いましてね。ぬいぐるみをかぶるということは、特に幼稚園なんかでやると、子供たちは「ウケル」けれども、ぬいぐるみをとると、誰も子供が寄って来ないさみしさがありましてね。
やっぱり、あー、人間、どうせ芝居をやるんなら、そのエネルギーをもっと活用できないだろうか、と話しあってですね。 1977年に、10人の仲間で劇団を作ったんです。
これは、ですね。ごく普通の芝居をめざしましてね。最初に取り上げたのが、「ビルマの竪琴」でした。
まあ、僕の父親が戦争で、大きく傷ついたということが、僕の、どっか戦争を引っ張ってるものがあって。あのヒューマニズムっていうか。それを子供の時に見て、本当に、いい涙を流した、忘れられない映画だったんですね。
で、あれを芝居にしたいと。9人で。特にこれを子供達に見せたいと。
当時原作者の竹山道雄先生が、まだ生きてらっしゃいましてね。鎌倉へお邪魔して。いまの子供に、これを見せたいって、お願いして。
それから、全国へ回ったんです。僕の生まれ故郷の島根から始めて。だから、人数は、小さな、少ない、50人ぐらいの学校だとか、そういう所を、宿舎を作って、そこを起点にして、回って歩いたんです。
それでも、仕事がだんだん無くなりましてね。とうとう、瀬戸内海の島を、回っていったんですね。漁船で。
その島の中で、豊島(ブジマ)という島があるんですけども。そこの学校は、まだ、今まで演劇を見たことがない。うちの劇団が初めてだったんです。生まれて初めて見る子供たちの姿は、僕の少年時代とまったく同じでした。もう、ほんとうにね、生き生きした感じは、東京では見られない。
その子供達が、演劇を見たあと、感想文を全員、送ってきたわけですよ。で、そこの中にですね、ひとりだけ、文字が、まったく書いてない感想文があった。
で、まるまるまる、てん、まるまる、てん、名前だけ…なんです。女の子でした。
あれぇ?って思ったんですよ。で、小学校に電話をしてみたら、その子は難聴だった。多分、セリフが全部聞き取れないので、芝居の内容がよくつかめなかったんじゃないか、と、そう思って、その、「まるまる」を、あらためて見ますとね。「ワタシも、芝居を楽しみたい」っていうふうに、そのまるの中に、字が、見えてきたんですよ。
ああ、そうか。そりゃ、そうだなと思ったんです。僕はね、誰にでも演劇は通じるもんだ、そういう…僕も、原体験があったもんで、非常にショックでしたね。それで、東京へ帰ってね、しばらくその事を考えてたんですけどね。
僕、実はふるさとに…、ろうあ者のおじさんと会ってたんですよ。その…僕の町にね、手話…いまでいう手話も、言葉もしゃべらない、こう、チャップリンのように歩きながら、下駄を履いてね、窓ガラスを一軒一軒拭きながら。その当時、5円ぐらい貰ってたのかなあ。そうやって生活をしてる、ろうあ者のおじさんが居た。
そのおじさん、大変怖いから、そばに寄っちゃいけない…ような、情報がありましてね。これは、手と手を…拳を…合わせると、作るっていう手話なんですけども、こうすると、怒るっていう噂があったんですよ。
青木/ああ。そういう…ね、いわれない噂が、蔓延(まんえん)してるような…。昔の時代って、そういうところもありましたね。
大原/ええ。
青木/それで、そのおじさんのことが、ふっと、頭に浮かんだ…?
大原/浮かんだんですよ。
結局僕は、そのおじさんに石を投げて、いじめた体験を思い出したんですよ。だから、この島の少女は、将来どういうふうになっていくのかなあ、と思って。僕のふるさとのおじさんのようにね、僕のような子供が、また石を投げるような存在になるんだろうか、と思ったんですね。
東京で。たまたま、国際児童年の時だったんですけども。…子供に芝居を見せるんで。お客がいない、無料でいいんで、子供を招待しようってんで、いろんな団体にお願いしました。交通遺児の子供達、盲学校。唯一、そういう申し出を断られた団体が、ろう団体だったんですよ。それが、東京都手話通訳派遣協会の方で。事務局長の方だったんですけども。 そういう申し出はありがたい、ありがたいんだけれども、我々は、その時に、舞台の袖(そで)に手話通訳が立って、芝居を見るということは、首振りの運動に行くようなイメージなんだ、と。
青木/あ、そういうこと…なんですね。こう、舞台と袖を、しょっちゅう見てなきゃいけない…。
大原/そう。だからなんとなく、あらすじは分かるけれども、冷静に芝居を楽しむって感覚が、体験がないって、言われたんですねー。これはもう、ダブルショックが来ましてねー。
それならば、自分たちで、手話を覚えて、演ずる俳優が手話を使えばいいんじゃないか、と。単純に、そう思ったわけです。それが出発でした。
それから、耳が聞こえなくて、俳優を辞めたような人が居ないかな、芝居好きなろうあ者、居ないかなぁ…。かなり、居るんですよ。ろうあ者の中に。で、その人に頼んで。劇団に入ってもらって、ですね。手話を教えてもらいながら、芝居を作っていった。それが出発でした。
当時は、まったく、それさえも無かったわけですよ。
青木/はい。でも、始めたはいいですけれども、難しい点も、いろいろとおありになったでしょう?
大原/うん、うん。ですから、結局、最初は、その…基本的に、テーマがヒューマニズムだったり、人が他人の事を自然と思う作品の時は、手話を使っても、なんとなく自然ですけれども。手話が合わない作品ですよね。
青木/さっき、おっしゃいましたよね。チャンバラだとかって、おっしゃってましたけど。
大原/ええ。ええ。結局、わかりやすく言えば、江戸時代のチャンバラ劇なんかもそうだと思うんですけども、手話の存在がハッキリしない時代。しかもチャンバラをしながら、しゃべりながら、手話をやることは不可能だと。
青木/ああ。ひとつひとつ…そういう細かいところも、考え、考え、しながら…いまの劇団をお作りになって、今の動きをお作りになっていったということなんですね。
大原/ええ。
青木/そして、そういった歴史の中で、一番強烈に思ったことって、どんなことだったんですか?そういう活動の中で…
大原/んー、やっぱり、その、生まれて初めて芝居を見た僕と、瀬戸内海の子供もそうだし、生まれて初めて芝居を見たろう児の顔も、忘れられなくなったんですね。そしてそれが、つまり、来年も再来年も、今度は無関係な演劇をやったら、その子を裏切ることになるわけですよね。それが僕の、やっぱ、エネルギーになっていったんですよ。
だからもう、東京で演劇をやることに、かなりもう、失望感もあったけど、そのろう児と会ったことが、その…僕をよみがえらせたっていうのか、あ、これが、僕に与えられた使命なんだな、と。演劇を。好きな演劇を。しかも、生きがいも感じられるんだというね。だから、一種の、苦しみよりも、そっちのほうが、僕には大きな財産になりました。
具体的にはね、耳が聞こえない…。そうはいっても、普通の芝居もやりたい、生活が出来ないんで、劇団を去っていく仲間もどんどん増えるし。10年経ちますとね。
青木/はい。
大原/だんだん、孤独になっていくわけですよ。僕もね。あー、これ、ちょっと、偽善的なものが、多いのかな。あー、僕はまだ、本物じゃないなーっていう、迷いも、正直、出てきました。10年ぐらい経つと。
その時にね、たまたま、僕に、最初に、「袖(そで)通訳」で、「首振り」といったろう者の人が、裁判記録だとか…。ろうあ者の、関わったね。それから西村京太郎氏の「四つの終止符」の原作を読んでくれ、と。持って来てくれたんです。
「四つの終止符」もそうですけど、特に裁判記録にね、大変なものを感じたんですね。
青木/どんな…?
大原/これはね。昭和40年に起きた、東京の上野のね、傷害致死事件で。ろうあ者が関連してるんですよ。ま、簡単に事件を説明しますと、上野のお寿司屋さんで、ろうあ者ふたりが、お寿司を食べていた。時間は夜の12時半ごろ。隣のテーブルに、耳の聞こえる、少し酔っぱらった常連の3人のグループがいて、身ぶりを見て、しばらく笑ってたんですね。で、その笑いがですよ、やさしい気持ちで、公平にかける笑いではないってことは、ろうあ者は、多分、日常体験として随分してたと思うんですよ。あんまり長く見続けるんで、ちょっと怒りだしたんですね。
それが、発端で、もめ始めて。「なんだ、この野郎」みたいな、なりゆきになる。そこへお寿司屋さんの主人が止めに入る。で、この3人の常連さんは、いつも来る、お金を使ってくれる大事なお客さんですよ。こちらのろうあ者は見かけない。特に一人は、初めて。お金も、コミュニケーションも、ちょっと取りづらい。
耳が聞こえる3人を応援する形になったと思うんですよ。これ、もうしょうがないと思うんだけども。で、もみ合ってる弾みで、打ち所が悪くて、そのお寿司屋さんの主人が亡くなられた…。
青木/止めに入った…?
大原/そう、止めに入った。
そういう不幸な事件なんですけども。
問題なのは、そういう裁判記録の中に込められた、そのろうあ者の家族の生活。そして、どういう学校で、どういう教育を受けて来たのか。ろうあ者の生(なま)の現状の姿が、ありありと、その裁判記録から、僕の目に、浮かんで来たんですね。
で、僕は、かつては、手話を覚えて、手話を使った演劇をやれば、もう、すべて、ろう問題が解決するというぐらい、まあ、錯覚をしてた。ところが、そこに、もう、なんか、手話表現も上手でないろうあ者が見えてくる。それで、家庭も、子供も居て、非常に生活苦もある。
そこでですね、一人のろうあ者の人を…。調べてみたら、そのおじさんは、戦争中に、台湾の小学校に、3年ぐらい通ってたわけです。で、太平洋戦争が終わって日本に帰って来て、改めて東京の大塚聾学校に、再入学というか、転入学を申し込むけれども、断られるんですよ。
その理由はよく分からないんですけど。ひとつだけはっきり言えたのは、当時、聾学校は、義務教育じゃなかった。で、ちなみに、後でわかったんですけども、昭和23年に、小学部1年生が、やっと、義務教育になって。それから、1年ごとに増えて、9年後に中学3年が、やっと義務教育になる。この事実も、僕は知らなかった。
盲学校もそうだったみたいですね。
それで。では、教育を受けないっていうのは、どういうことなのか。義務教育さえも満足に受けられないっていうことと、聞こえないってことは、どういう関係なんだ?どういうことか?って思って、いろいろ、聾学校を見て歩いたんです。 そこで、ああ、そうか、耳が聞こえないって、こういうことなんだ、と思ったのは、ひとつは、ま、10年前ですけども、当時は、口話法。手話を禁じた教育が主流を占めてて。
青木/手話を禁じてた教育…
大原/…が、ほとんどだったんですよ。つまり、口話法(こうわほう)。
青木/口話法っていうのは?
大原/つまり、口(くち)で声を出す…。
青木/口(くち)の「こう」ですね。そして、話(はなし)ですね。口話法。
大原/ええ。口話法。そして相手の口を読みとる。
青木/はあ…。
大原/で、これを。ま、ひと言で言えば、耳が聞こえる人間に近づく教育ですね。それは、耳が聞こえる人がほとんどだし、社会を占めているのも、そうだし。そこに近づかなければ、ろう者として、生きづらいという面があったと思うんです。それは、僕は、ま、しょうがないと思いますが。
じゃ、逆にですよ。耳が聞こえる子供が、聞こえない子供に近づく教育を受けてきたのだろうか、ということなんですよ。ろう児だけに負担をかけて、努力を強いても、聞こえる学校の子供が近づく努力をしない、と。
言葉で「福祉」「ボランティア」、いろいろ言っても、ろうの場合は、本当にコミュニケーション、生まれづらいのは、そこにある、と。
これが、ひとつ、原点にありましたね。
で、もうひとつですね。たとえば、どういうこと…方法で、言葉を覚えるか。母音、「あ」なんかの時は、こうして水を飲んでね。『アアア』、とこうやって、うがいをする。うがいをする時の口の形は…「あ」の、口形に近い。こうして、声を出す。『アアア』。で、その、声は自分に聞こえないわけですね。
で、先生はね、「もっと、違うでしょ。喉、さわってごらん、お腹、触ってごらん、そうそう、近いよ、近いよ、頑張って」…て。その、先生や、お母さんが、元気づけながら。『アアア…』と。こう、近づいていく姿を見たわけですよ。
で、「け」なんかの時は、口の中に、指を突っ込んで、あげそうになる。あげそうになる口の形が、「け」に近い。『ケケケ…』。
それは、耳が聞こえる子供が、英語を覚えるとか、そういう問題じゃない。まったく努力の種類も違うし。努力の、この、すばらしさも違うし。その何百倍もの努力をして、言語を獲得してる子供の姿に、僕はもう、何度も、鳥肌が立つような、感動を覚えました。