蛇の目寿司事件 | 昭和40年 秋、東京上野で起った傷害致死事件です | |
二人のろうの青年が、ある寿司屋で、手話で話しをしていたとたろ、三人の客が、好奇の目で、じろじろ、二人を見る。 二人は「見ないで」と頼むが、三人の客の態度は変わらず。そこで、立って行って、客の肩を叩いて注意を促したが、逆に殴られ、ケンカとなってしまった。 店の主人はろう青年と顔見知りで、仲裁に入ったが、くちで言っても通じないためか、下駄(ボール…という証言もある)で、ろう青年の頭を打ったため、今度は主人と争いになってしまった。 そして、店の主人は、投げ倒された際に、後頭部を強打し、そのまま亡くなってしまった…。 |
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★ろう青年二人は、日本ろう学校中等部卒の者と台湾の尋常小学校3年中退者。 ★手話が唯一のコミュニケーション手段。 ★当時の聾学校は普通学校より5〜6年遅れていると言われていた。 ★これ以後、手話通訳者の必要性が強く求められるようになった。 |
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☆ 厚生省が、手話奉仕員養成事業を始めたのは、昭和45年。 ☆ 通常、手話通訳ができるまで、5〜6年はかかる…と言われている。 ☆ 地域に、手話通訳が広がったのは、昭和50年以降であろう。 ☆、事件が起った昭和40年当時は、東京でも、手話通訳が出来る人は、10人いなかったのである。 ★ 以下に、この事件のポイントを載せた。 |
ポイントその1 | ||
当時、手話がわかる者は限定されていた。 警察は、ろう学校教師に手話通訳を依頼したが、ろう学校では手話が禁じられていたため、手話ができる教師は限られていた。 『手話ができること』と『手話通訳が可能なこと』は、別である、という認識は、警察を含めて、司法側にも一般社会にもなかった。 |
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ポイントその2 | ||
上記の状況から推察してみよう。 警察官の訊問は、被疑者であるろう青年たちに、正しく理解されたのか? また、ろう青年たちの、容疑者として陳述は、正しく、取調官に伝えられていたのか? |
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☆ 後に、拘置所に収監された二人に聞くと。 ☆ ろう青年は、被疑者にどのような権利が認められているかを知らず、どんな説明があり、どのように理解したのか、覚えていなかった。 ☆ 黙秘権についても知らなかった。 |
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ポイントその3 | ||
裁判救援活動をする友人たちは「守る会」を結成し、良い弁護士を探した。しかし、被告人がろう者とわかると、引き受けてくれるところはなかなか見つからなかった。 周囲の健聴者に、弁護士がなかなか引き受けてくれないことを訴えても、「国選弁護人がいるから心配はない」と言われるだけであり、ろう者の置かれている状況は理解されていなかった。 |
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国選弁護人 国が費用を負担して選任してくれる弁護士。 依頼費用が安いので、自分で依頼する私選弁護人に比べ熱心ではない…といわれることも。 大きな事件を除き一般的には、弁護士になったばかりの人が担当することが多い? 国選弁護人は被疑者が起訴された後につく。 逮捕されて警察の取り調べを受けている時に弁護士を付けるには、自分や家族などが頼むしかない。 |
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☆ この時代、ろう児の親の関心は、ろう学校の口話教育に向けられていた。 ☆ 家族でさえ、ろう児ろう者と、コミュニケーションが持てないことも多かった。 ☆ ろう学校を卒業した後の、社会生活に対する関心・認識も浅く、蛇の目寿司事件のような、深刻な問題が起っても、家族の立場から、事の重大さを、社会にアピールして行こう…という動きはなかった。 |
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ポイントその4 | ||
被告人のろう者のためには手話通訳がつけられた。しかし、傍聴のろう者の為に手話通訳を付けることは認められなかった。 また、被告人であるろう者の陳述内容と、警察署・検察庁の調書とでは、食い違いが多々あったにもかかわらず、法定に出廷した証人達に対して、被告人からの質問がまったくと言っていいほど、無かった。 つまり、憲法第37条第2項 『刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与えられなければならない』 という規定が、生かされていなかった…ということである。 |
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ポイントその5 | ||
さらに衝撃的だったのは、ろう者である被告人から「手話通訳者を代えて欲しい」という申し立てが何度か出されたこと。 被告人の気持ちは、「自分が手話で話す時間の長さに比べて、手話通訳者が口頭で裁判官に伝える時間が短すぎる。自分の言うことを正しく通訳してくれていない」というものだった。 (通訳者が言うには、「被告人の陳述が同じことの繰り返しで冗長すぎるから、簡潔に要点をまとめて伝えようとした」) |
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☆ この問題は、『守る会』の中でも激論が交わされた。 ☆ 手話通訳者を代えるかどうか… ☆ 結果、『被告人が手話で話すことは、たとえ冗長であっても、本人にとって不利なことであっても、正確に手話通訳する』人を依頼することになり、延べ3人くらい、手話通訳者を代えることになった。 |
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法の下の平等…とは言うけれど | ||
★ 被告人のろう者と面接の時、金網越しの薄暗い部屋では、手話がよく見えない。
★ 手話が出来る看守はおらず、他の囚人と手話で会話することもできず、雑誌や新聞を差し入れても、当時の教育の国語力では、読みこなす力は無かったであろうし、ラジオはあっても、聞こえない…。 ★ 健常者が口頭で話すのと手話で話すのは、時間的に大きな差があるが、面接時間は、同じ時間に制限されている。 ★、通常、弁護人が接見する時は、立会人なしで被告人と会うことができるのだが、『手話通訳者は弁護人ではない』という理屈で、立ち会い人なしで会うことができなかった。 |
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判決 | ||
第一審(地裁) 直接手を下したろう者に、懲役5年の実刑判決 (控訴) もう一人に、 懲役10月、執行猶予3年 第二審(高裁) 地裁判決を懲役4年に減刑 |
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☆ 被告人から提出された上申書の文脈が支離滅裂であり、被告人は精神的発達が不十分と判断された結果の情状酌量。 ☆ では何故、警察での取り調べの時の筆談は、問題にならなかったのだろうか…? |
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参考 『新しい聴覚障害者像を求めて』 日本聴力障害新聞 == 全日本ろうあ連盟出版局 == |
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